ことばの力、ことば以外の力
なぜ自分たちは「醜いアメリカ人」などと言われるのか…。ベトナム戦争後自信喪失気味のアメリカ人の間で異文化コミュニケーション学やノンバーバル(非言語)コミュニケーションが学ばれ始めたのはいい。しかし、これを日本人研究者が逆輸入して粋がっていた時期があったがいただけなかった。
なるほど学問にしてきた伝統こそ日本にはない。しかし日本ほどことば以外のコミュニケーションを芸術や文学の世界に花を開かせたり、一方で人間関係のしがらみの中でどす黒く渦巻かせてきた文化はない。言霊の咲き匂う国日本は、非言語でむせ返るがごとき国でもある。また日本人は雄弁ではないなどといわれるが、どっこい非言語がらみでいえばとてつもなく雄弁だ。
ペンは剣。しかし、ことばとことば以外の伝えるメッセージの間にずれがある場合、聞き手はことば以外の伝えるメッセージのほうを90パーセント以上信じてしまうという。まさに非言語おそろしや。我々はよく「気持ちがこもっていない!」などという。ことばの背後にある気持ちと、その気持ちを伝えることば以外の目つき、体つきの持つ力に重きを置いているからである。それだけではない。自分の身体を介在させないということ自体も巨大なるメッセージ発信だ。「恋をする身と知ったのはあなたの姿が消えた夜…」(西條八十)もそうだが、意図的に姿を消して相手をいらだたせたり、携帯のレスポンスに微妙な時間差をつくるなど、あなたも私もたいそうなコミュニケーションの業師である。
問題はコミュニケーションや言語訓練の仕方だ。上例のように非言語は単独でなくヴァーバル(言語)の影として扱ってこそ引き立たつ。両者は切り離さないほうがいい。
「わたしにとってお父さまは、この目より、自由より大切な、真善美をそなえた、命にも優る尊いお方です。 私は、あらゆる評価を越えた、豊かで素晴らしいお父さまに最大の愛を捧げます」という素材に対して、まず文字通りの心でいう版、財産目当ての心で「父」にいうがバレてしまうドジ娘版、次に父にはあくまで従順さを演じつつ、聴衆や第三者にだけは目線などで真逆の心情を伝える版、そして最後に観客も含めて丸め込む版などをいかに演ずるか考えてみるのである。
私が演劇、オーラルインタープリテーション(音声解釈表現法)に力を入れてきた理由である。