文章によるコミュニケーション
年賀状を準備する時期が、またやってきた。この時期になると、正月にいただいた年賀状を取り出し、一枚一枚読み返しながら年賀の挨拶の言葉を考える。中には、家族や本人が亡くなったとの喪中のハガキをいただいて年賀の挨拶を遠慮しなければならない方もいるが、年令を重ねるごとにその数が増えていくのは仕方のないことなのかもしれない。
文章によるコミュニケーションといえば、昔から手紙のやりとりと決まっている。年賀状のようなハガキは、その簡易版だ。おそらくお正月の挨拶程度の軽い文章のやりとりなので、便利な形式だとして定着したものであろう。徳川家康の家臣に本多作左衛門重次という武士がおり、この人が戦いに出ているときに妻に宛てたという有名な手紙があって「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ」。要を得た簡潔な、リズム感のある手紙文として知られているが、今ならさしずめハガキで十分というところだろう。
紙などに書かれた文章は、保存状態さえよければ、いつまでも残っている。自分が伝えたい内容を文章で残しておけば、ずっと時間が経った後でも書いた人の意思を伝えることができる。この性質を効果的に活用したものは、遺言書であろう。自分が死んだ後で伝えるものであるから一方的なきらいはあるが、これも一種のコミュニケーションといえる。文章を書類にして残せば、時間や空間を気にせずに自由に内容を発信することができる。裏から見れば、それだけ影響する範囲が大きいから、誤りがないよう慎重に書かなければならない。国会の討論や公の場での言葉による発信の場合も、誤解や誤りがないようにしようとすれば、文章にしてそれを読む形にならざるを得ない。
文学作品も広い意味で時代を超えた文章によるコミュニケーションといえよう。折しも「となりのトトロ」等の長編アニメ映画作品で知られるスタジオジブリが「かぐや姫の物語」を制作し、全国的に公開した。原作は、平安時代に書かれた「竹取物語」である。物語が文章として残っていたからこそ、われわれは、このアニメ映画の映像を通じて、平安時代に生きた人々の風俗や考え方の一端に触れることができる。より直接的に、正確に知ろうと思えば、原典の「竹取物語」を読んでみればよい。
文章を紙に書くことが少なくなり、ワープロを使うことが多くなった。コンピューターは便利だが、紙に書かれたもののように大切に保存する意識はまだまだ希薄である。うっかりすると、マウスのワンクリックで苦労して作った文章が跡形もなく消えてしまう。また、外部記憶媒体に保存しておいても、不注意から記録を壊したり、保存した場所がわからなくなったりしてしまう。1年ぶりの年賀状作成準備を、そんな失敗のないよう自戒しつつ行っている。