朗読訓練で培うコミュニケーション能力
朗読はコミュニケーション能力をつける強力な訓練である。しかしそれは、批判的味読、表現よみというコミュニケーション的な視座で読む精読から絶縁されたものであってはならない。すべて一丸となった訓練として私がインタープリティブリーディングとかオーラルインタープリテーションを強調してきたのはそのためである。
例はアメリカ映画「ローズ」主題歌からの一部である。私はまずは喋らせてみる。
…愛、それは川、若い葦を沈めてしまう川、という人もいる。愛、それはカミソリ、あなたの心を切り血を出させてしまうカミソリという人もいる(中略)愛は幸運で強い人だけのものに思えるときこれだけは覚えておいて。冬に深い雪の下に眠っていたその種は、春には太陽の愛をうけてバラの花を咲かせることをー。
多くの人は気分よさそうに朗々と朗読する。多少の上から目線でー。時にはジェスチャーなどを入れ、「そのバラのような方がここにいらっしゃいます」という含みも入れてーーあくまでも語り手の自分を事件の外に置く解釈である。しかし、かくして作品はガラスケースに入った造花扱いされ、世の殿方などにビジネスには関係ねーなどと誤解する羽目になる。
私はいう。1)だれが、2)誰にむかって、3)いつ、4)どこから、5)どういう目的で、6)どういう話を、7)どういう配列や表現で展開しようとしているかの七つのポイントは、素材の外にあるのでなく内在していて、それをひっぱり出すのが朗読であると。そして課題を出す。「10通り異なるように音読してみよ!」。要所で「声に出している時に、何を思っているか?体はなにをしているか?」などと激をとばすから油断も隙もない。作品というスピーチの語り手ととことん向き合わせる。現代人が苦手な人の心を理解する訓練になる。
そうした中からこういう解釈が生まれてくることがある。
語り手は荒んだ女。バラは実は自分自身。「愛について色々な人がいろいろなことをいうが、ひたすら耐えてここまで来たアタイのような人間がいるということを忘れないでほしい」と訴えかけているとー。当然音声も身体も造花的解釈とは三百六十度変わってくる。目線が定まらなければ、「それはテキストの中に内在する聞き手が発見され尽くしていないからだよ」といってさらに考える機会とする。京都の大学でのことだった。「三十三間堂はここから近いよ」と。「1000体観音を一体,一体眺めながら自分の体の中を通り抜けて行った男たちを思い出す西鶴一代女のお春を練習してこい」とー。お堂を巡る老女の動きはのろい。しかし一人ひとりを思うのはちとおぞましいかな。学生がいった。「みな先にいっちゃったのよねとポツリとつぶやかせたら」。なるほどだったら固定位置で仏たちをみやる目線になろう。でもそのやりとりを外から見ている聴衆へはたっぷりきかせられる発声はほしいね。繰り返すうちにセリフは体に刷り込まれていく。
ビジネスコミュニケーションには関係がないという御仁に言いたい。
「…色々な企業があるかもしれない。しかし、手鍋提げてもからスタートしたわが社の先代は、今大輪の花をさかそうとしているので」と思わずローズの語り口が生きていて、話す様が相手の心を打って商談がまとまることだってありうるということを。